病院へ行くのを嫌がる祖母と「物忘れ外来(または認知症外来など)」へ一緒に行ったのは、わたしでした。
当時は、認知症が他の病名で呼ばれた時代で、世間一般のこの病への興味・関心も今よりずっとずっと低く、わたしでさえ、どこか他人事と考えていました。
映画や小説、ドラマの中には、認知症の影響を受けた高齢者が登場することがあります。作中で描かれるそのイメージは非常に強烈で、特に年齢を重ねることや、家族の誰かが認知症になることがまったく予想外だった、わたしにとっては、印象深く残りました。おそらく、多くの人々も同じように、このような描写を強く受け止め、認知症に対するイメージが自然に形作られたのではないでしょうか。
また、認知症に関しては、かつては『治らない』という強いイメージがあり、他人に知られることを恐れることも多かった時代でした。
しかし、結論として、認知症が発症したからといって、その人の理性や意志が完全に失われるわけではなく、むしろその人の感情や個性は保たれています。認知症を持つ人々に対する理解とサポートが重要であることを、改めて認識することが大切です。
わたしが家族の異変に気づいたキッカケ
近所に住む祖母の異変に気づいたのは、彼女が通販で何度も衣類を注文したからでも、あげたお菓子を、いままでならわたしの分を残してくれていたのに、気が付いたらひとりで全部食べてしまったからでもありません。
それぐらいでは、おばあちゃんも年取ったのかな。最近ちょっと変だな。ぐらいにしか思いませんでした。
決定的に「これは異常事態だ!」と思ったのは、祖母の家を尋ねて行くと、玄関の鍵をかけずにそのまま遊びに出掛ける事が何度か続いたからです。
ちょっと近所までというのなら、鍵をかけ忘れていたとしても、理解できなくもありません。
だけど、しばらく待っても戻って来ないのです。ご近所に顔を出しているのかと家の周りを歩いたりしてみますが、居ません。それで、まさかと思って祖母が居そうなお店を探しに行くと、彼女はすっかりお出かけモードで楽しんでいるのです。
また、ちょうどその頃、遊びに行った先で階段から落ちて怪我をした事もありました。その日はお友だちの陽子さんと遊びに出掛けていました。陽子さんは母も知っている人です。
いつもニコニコしていて人の悪口などいった事もなかった祖母なのですが、怪我をしてからはわたしに会う度に「あの日、陽子さんが下からわたしを引っ張ったから階段から落ちた」と繰り返し言うようになりました。
あまりに何度もくり返すので母に、「おばあちゃんが陽子さんから、下から引っ張られたっていうんだけど、そんなことあると思う?」と聞きましたが、あり得ないという結論になりました。
激怒する家族と物忘れ(認知症)外来に行くまで
祖母はどこか変だ。そう感じ、インターネットで物忘れ専門で診察してくださる先生を探しました。もし病気だったとしても、原因がわかれば、なにか治療の手だてがあるかも知れない。そう考えました。
インターネットで公開されている資料の中から、私たちの家からいちばん近くて、祖母もひとりで通えそうな場所にある大学病院の先生に絞り込み、そして一緒に行こうと誘いました。
わたしは彼女がYESといってくれると信じていました。今までわたしの誘いを一度も断ったことなんてなかったからです。
けれど祖母は予想に反し、激怒し、声を荒げて「行かない!」というのでした。
それからも、いま思うと、おかしな事はつづきました。
彼女は若者との親交も深かったので、慕って家に遊びに来る人が何人もいました。美紀さんもその中のひとりでした。
祖母はじぶんの娘(私たちの母親)に電話をして「このあいだ美紀が家に遊びに来た後で、珊瑚のネックレスが無くなった。美紀に取られた」というのです。母は真偽を確かめようと家まで行き、部屋の中を一緒に探しましたがネックレスは出て来ず。その時は、本当に美紀さんという人に取られたのかもしれないと思ったそうです。
しかし、その珊瑚のネックレスはそれから何か月も経ち、祖母が引越しをする事になって片付けをしている時に、部屋の中から出てきました。
そして、わたしがいちばん驚いたのは、やかんを火にかけたまま、玄関の鍵をかけずに外出していた時でした。部屋の中に入ると、やかんからは白い湯気が絶えず出ていました。祖母はお湯を沸かしたまま、忘れて遊びに出掛けていたのでした。
これはほんとうに危ないと思いました。
『物忘れ(認知症)外来』を受診しようと誘うと、いつも激怒していた祖母でしたが、ここ最近の怒りっぽい彼女とは違って、おだかやな日がありました。
今日がチャンスかも知れない。そんな予感がしました。その日は午後から仕事の予定でしたが、家族の健康には変えられません。もう一度、病院へ誘ってみました。
「おばあちゃん、最近ちょっと物忘れが多いみたいだから、一緒に病院に行かない?この間もやかんを火にかけたまま出掛けて行って、危なかったでしょう?わたしね、おばあちゃんの為にいい先生をみつけたんだよ。今日は仕事休むから、今から一緒に病院へ行こうよ」
きっと祖母も自分の変化には気づいていたのだと思います。そして、どうしたらいいかわからず苦しかったのだと思います。
彼女は泣きながら「いいよ。一緒に行こう」といってくれました。
職場のみんなには申し訳ないと思いましたが、大好きなおばあちゃんの一大事です。「家族の病院に付き添う」という理由ですぐに電話をして、それから祖母は、いつものようによそ行きに着替え、大学病院へ行きました。
物忘れ(認知症)外来に付き添うまで 母の場合
わたしはなぜか小さな頃から、ものごとを宇宙規模で想像するのが好きでした。その癖は、いまでも残っています。医療従事者の方々からは「認知症は治ることはない」といわれています。けれど祖母が認知症と診断を受けたその頃と比べると、周りの環境はずっと変わっています。
この宇宙のなかには、まだわからない事がたくさんあるし、認知症が発症するメカニズムもまだ厳密には解明されていないとわたしは考えています。素人ながら、認知症、とくにアルツハイマー型は、生活習慣を改善する事でカバーできる事も多いような気がしていて、早期から適切な関りを持てば、介護される人も、する方も生きやすくなるんじゃないかなと、そんな期待をしています。
けれど母の異変に気づき、同居をはじめた当初は、認知症と診断されるのが怖くて真剣に向き合っていない所がありました。林医院の林先生は、途中から、私たちが何もいわなくても、お薬の中にアルツハイマー型認知症のお薬を処方してくださっていました。その現実もまだ受け入れられずにいました。
同居して一年ぐらいたった頃、母の場合はほんとうはどうなのかとか、もしかしたら認知症ではない別の病気の可能性もあるんじゃないかとか、それなら他の薬を飲む必要があるのではないかなど、わずかな期待を持ったまま母に聞いてみました。
「ねえ、おかあさん、最近ちょっと物忘れがあるみたいだし、いちど病院に行ってみない?おばあちゃんを診てくれていた先生、覚えてる?あの先生に診てもらったらどうかと思って。高齢者専門の科が今はあるんだよ。」
本人も忘れっぽい事には自覚があったので、母は「そう?それなら美愛(みあ)に任せるわ」と、すぐに同意してくれました。
あの頃とは時代は変わり、ご高齢の方が増え、総合病院・大学病院に「高齢者の方向けの専門外来」が出来ていました。受診も以前のようにいきなり行くのではなく、ほとんどの場合予約が必要で、紹介状を持参していないと受診料が高額になる場合があるため、林先生にお願いして紹介状をいただいてから病院へ行きました。
認知症患者さん自身も救いを求めている
祖母の時は病院の受診をものすごく嫌がっていました。
認知症であることを、今よりも、もっと周囲の人には知られたくない時代でしたし、生まれた年代的にも、本人のプライドや、事実を受け入れたくない気持ちなど、たくさんの葛藤があったのではないでしょうか。
それでも、ある日、事実を受け止め、そして病院へ行く決心をしてくれました。
彼女自身に、助けて欲しいという気持ちがあったのだと思います。
あの日は、その気持ちと、わたしの申し出のタイミングが上手く合った日でした。
母の場合は、祖母の介護をしていた過去がありますし、自分でも物忘れが多くなったという自覚がありました。検査を受けるまでは正直どの病気かまだわかりませんでしたから、「認知症」という言葉は積極的には出しませんでした。彼女はごく最近まで「認知症」という自覚すらありませんでした。
今は「高齢者の方向けの専門外来」があり、そちらで総合的に診ていただける為、「認知症」が恥ずかしいと思うような方でも、足を運びやすい時代になったと思います。
最初は病院へ行きたがらない場合でも、心のどこかでは救いを求めているのではないでしょうか。
大きな病院へはふだん行かないので、そういう診療科がある事を知らない人もいるのかも知れません。
認知症に限らず、ご高齢の方の体調がどのような状況かをご家族が知ることで、どの程度の見守りや介護が必要かがわかります。そこから、新たに、その先のステップに繋げられると信じています。
受診を拒否された場合でも、それがご本人の為であれば、必ずわかってもらえる時が来ると思います。気長にゆったりとした気持ちで、そしてユーモアも忘れずに、ご家族に接してみてください。
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