介護が始まる前の平凡な日常 祖母との幸せな時間を振り返る

介護体験談

おばあちゃんは強い意志と社交性を兼ね備えていた

祖母は40代で自営業を始めました。当時、女性が一人で事業を立ち上げるのは珍しく、特に40代からの起業は年齢・性別にかかわらず大きな勇気と決断力が必要でした。彼女には、自分の道を切り開く意志の強さがありました。

しかしわたしから見た祖母は、いつでもユーモアを忘れない、人付き合いが大好きな、愛らしい人でした。むかしの事を聞いても、ニコニコしながら「大変だったよ」と教えてくれるぐらいで、決して自分から苦労話をするような事はありませんでした。

わたしが中学生ぐらいのときだったでしょうか。祖母の家へ遊びに行った帰り道、彼女のお店とわたしたちの家の方向が同じだったので一緒に歩いていると、祖母の知り合いの多さにとても驚かされました。

祖母の家からお店までは、約1kmに渡る2つの商店街がありました。仕事へ行く時はそのゆるやかな坂をのぼって行くのですが、顔見知りが多過ぎて、少し歩いては店主と挨拶やジョークを交わし合い、また数軒先で別の店主と挨拶を交わすので、「いったい、いつになったらおばあちゃんのお店にたどり着けるんだろう?」と本気で心配になりました。

若い世代との交流を楽しむ

祖母は若くしておばあちゃんになった事もありますが、親戚が集まれば噂する程に見た目も若々しく、彼女と一緒にいるわたしをはじめて見る人は決まって「なに、おかあちゃんのむすめ?」とたずねて来ました。その度に祖母は笑いながら「ちがうよ、孫だよ」と答えていました。

わたしが社会人になって祖母の家の近くに引っ越してから、ますます彼女との交流は深まりました。

 好き嫌いなくなんでも食べるおばあちゃん

彼女のひとりの時の食事は、決して贅沢はせず、野菜などの煮物と海苔巻き、魚の煮つけや缶詰などが多かったようです。もともとお魚は好きでよく食べていました。また、テレビの情報番組で身体にいいという食材を知ると、白米に「まごわやさしい」という語呂の食材を入れて炊いたり、それを説明しながらおすそ分けもしてくれました。

「まごわやさしい」とは『ま:豆類、ご:ごま、わ:海藻類、や:野菜類、さ:魚類、し:きのこ類、い:いも類を積極的に食べようという、健康的な食生活を支える7つの食材の頭文字の組み合わせです。』

一緒に食事をする時は、食べ物が硬くて噛み切れないとか、そういったこともなく、和洋中なんでも喜んで食べていました。

わたしと外食に行く時は「おばあちゃん、なに食べたい?」と祖母を気遣って聞くのですが、彼女は決まって「美愛(みあ)の食べたいものなら、何でもいいよ」といって、お店選びからメニューまでを任せてくれ、ピザでもパスタでも、ほんとうに好き嫌いなく、孫が頼んだものを美味しそうによく食べてくれるおばあちゃんでした。そしていつも決まってお会計は祖母が払ってくれました。

気前が良く感謝の気持ちも忘れない人

人づきあいが多かったためか、日頃から人へのプレゼントもよくしていましたが、いただき物も多い人でした。

わたしが家に遊びに行くと、コーヒーチェーン店のドリップカフェ詰め合わせでも、高級洋菓子店のお菓子詰め合わせでも、どんな物でも祖母はその箱をとても大切そうに持ちながら、そして嬉しそうに誰からもらったかを教えてくれ、そして必ず「これは良い物だよ」とか「これは高級品だよ」といって、一緒にいただいたり、お土産で持たせてくれたりしました。

それはわたしがプレゼントをした時もそうで、いつも「美愛(みあ)ありがとう。これは良い物だよ」と喜んでくれました。

ダンスも上手だったおばあちゃん

さらに手先が器用で、和服も着こなせ、盆踊りもラテンダンスも何でも上手に踊れる、とってもハイカラなおばあちゃんでした。

人脈が広い人でしたから、近所に焼肉食べ放題店や、気軽に食べられるお寿司レストランなどが出来ると、自分がお友だちに連れられて行った後で「美愛(みあ)、新しいお店が出来たから、一緒にご飯食べに行こう」と連れて行ってくれ、そこでもまたご馳走してくれました。

わたしが学生時代の友人や職場の友だちと出掛けたりする時に祖母を誘うこともありました。毎回、祖母は「同世代の友だちの数もだんだん少なくなって行くし、年寄りと一緒にいるより、若い人と交流を持った方が、気持ちが若返っていい」と、喜んで参加してくれました。

祖母の社交性はほんとうに凄くて、ある時はひとりでデパートに行き、帰りのタクシー待ちをしているとそばに若い女の子も並んでいたので「お姉さんはどこまで行くの?」と聞いたら、方向が一緒だったので「タクシー代出すから一緒に乗らない?」といって、途中まで乗せてきてあげたという話を披露してくれました。

若者の街・六本木にも付き合ってくれる元気なおばあちゃん

シフト制の仕事にわたしが就いていた時、平日のお休みにひとりで遊びに行くのも抵抗があったので、そんな時はよく祖母に付き添ってもらいました。

当時のわたしは休日にデパートのショーウィンドウを見て歩いたり、少し遠出だとディズニーシー、お台場、六本木へ好んで行っていました。誘うと祖母はかならず「いいよ」といってくれ、それからお出かけの支度をはじめます。

わたしが行くデパートまでは電車で数駅なので、いま着ている服で大丈夫だよといっても「デパートに行くんじゃ、こんな格好じゃ行けないよ」と、必ず外出用の服に着替え直し、きちんとお化粧を済ませてから出掛けるお婆ちゃんでした。

祖母はほんとうにノリが良い人で、場を明るく盛り上げるのが得意な人でした。

わたしのお誕生日には、わたしの友人たちと一緒に六本木まで行き、深夜まで一緒に楽しくカラオケを楽しんだこともありました。

祖母との思い出の写真

祖母にはいつもご馳走になっていたので、たまにはわたしがご馳走しようと祖母の85歳のお誕生日にハードロックカフェ六本木へ行きました。お店のサービスでバースデーセレモニーをしていただき、日付が変わる頃まで二人で一緒に飲んだり食べたりして楽しみました。

祖母はその翌年、急に他界してしまったので、その時二人で撮った写真は、元気だった祖母との良い思い出として残っています。

そんな誰からも愛される優しいおばあちゃんの異変に、最初に気づいたのはわたしでした。

当初は祖母の実の娘にあたる母にそのことを話しても、なかなか信じてもらえず、わたしはひとりで、彼女のこれからについて考えるしかありませんでした。そして、これまでとは180度、人が変わってしまった祖母に戸惑う日々がはじまるのでした。

当サイト「ちょっと楽になる介護奮闘記」は、実話をもとに書いていますが、登場する人物名や団体名はすべて仮名にしています。

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